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平成24年年師走 新潟村上・会津若
2012年12月17日 八重の桜 会津若松  
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八重の桜 会津若松
2012年12月17日
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村上名物「塩引き鮭」

12月18日、今日は羽越本線・村上駅から新潟へ電車で行き、高速バスに乗り換え会津若松へ向かう。
朝食は一階レストランで。昨日(団体が入って賑やかだった)と違って今朝の料理は客数が少ないので品数がぐっと減っている。こんな事初めて、効率重視サービス手抜きの宿の姿勢が伝わりがっかり。

宿の中には間もなくクリスマスの飾りもの。

宿の送迎バスに乗せてもらい羽越本線・村上駅へ。
8:49発普通電車で新潟へ10:06着。

会津若松行きのバスは10:45発〜12:46鶴ヶ城・合同庁舎前着予定。
新潟駅近くのKマート前バス乗り場で待つ。あいにく冷たい小雨、会津は雪模様らしい。
バスは新潟亀田ICから日本海東北自動車道に入り、磐越自動車道を経由して、会津若松ICで高速を降りる。
会津若松駅でほとんどの乗客は下りていったがそのまま乗って鶴ヶ城合同庁舎前で下車。


今年のNHK大河ドラマは会津若松生まれの新島(旧姓山本)八重の一生で、町のいたる所 八重一色。
八重の桜 主演:綾瀬はるか
新島(旧姓山本)八重の生涯
会津藩の砲術師範であった山本権八・さく夫妻の子として誕生。
会津戦争時には断髪・男装し家芸であった砲術を以て奉仕し、若松城籠城戦で自らもスペンサー銃と刀を持って奮戦した。
会津戦争が始まる前、但馬出石藩出身で藩校日新館の教授をつとめていた川崎尚之助と結婚したが会津若松城籠城戦を前に離婚、一緒に立て籠もったが戦の最中に尚之助は行方不明になった。
明治4年(1871年)、京都府顧問となっていた兄・山本覚馬を頼って上洛。
翌年、兄の推薦により京都女紅場(後の府立第一高女)の権舎長・教道試補となる。この女紅場に茶道教授として勤務していたのが裏千家13代千宗室(円能斎)の母で、これがきっかけで茶道に親しむようになる。兄の元に出入りしていた新島襄と知り合い、明治8年(1875年)10月に婚約。当時、新島のキリスト教主義の学校建設を阻止しようと町の僧侶・神官たちが連日のように抗議集会を開き、京都府知事・文部省に嘆願書を提出するなどし圧力をかけていた為、京都府は婚約直後、突如八重を女紅場から解雇した。
明治9年(1876年)1月3日に再婚。京都初の日本人同士のキリスト教式の結婚式であった。女紅場に勤務していたときの経験を生かし、同志社の運営に助言を与えた。欧米流のレディファーストが身に付いていた襄と、男勝りの性格だった八重は似合いの夫婦であったという。
同志社英学校においても戊辰戦争の際、会津藩を攻めた薩摩長州出身の学生を冷遇したり、問題を起こした兄嫁を義兄や襄が許しても家から追い出したりと、西洋の感覚を身に着けながらも、武士の誇りと道徳にこだわったため、周囲と軋轢を生んだ。このため、同志社英学校の学生達の演説会に夫婦で出席した際は、当時学生であった徳富蘇峰に演壇より「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺のような女性がいる」と強く非難された。これに対し八重は全く動じなかったと伝わっている。しかし夫婦仲はとても良くこの時期夫の襄はアメリカの友人への手紙で「彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です」と書いている。
明治23年(1890年)、襄は病気のため急逝。襄の臨終の床で蘇峰に過去の非礼を詫びられ、和解した。前々年の明治21年(1888年)5月、襄は彼のよき理解者であり、協力者であった奈良県吉野の山林事業家で自由民権運動の財政的後ろ盾でもあった土倉庄三郎に「小生ノ病症は早ヤ心臓病ニ相違無之、早晩小生ハ此之病之為ニ斃るへきハ覚悟せねばならさる由」(『新島襄 人と思想』・晃洋書房」より原文)などと書簡で縷々述べ、自分亡き後の学校のこと、八重の生活のことについて協力を求めている。
2人の間に子供はおらず、更にこの時の新島家には襄以外に男子がいなかったため養子を迎えたがこの養子とは疎遠であったという。さらにその後の同志社を支えた襄の門人たちとも性格的にそりが合わず、同志社とも次第に疎遠になっていったという。この孤独な状況を支えたのが女紅場時代に知りあった円能斎であり、その後、円能斎直門の茶道家として茶道教授の資格を取得。茶名「新島宗竹」を授かり、以後は京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し裏千家流を広めることに貢献した。また、女紅場の講師に華道家元池坊の当時の家元だった42世池坊専正がおり、明治29年に池坊専正から「池坊入門」の免状と席札が交付されていることから、華道の心得も習得していたことが伺われる。
襄が亡くなった明治23年(1890年)、八重は日本赤十字社の正会員となり、明治27年(1894年)日清戦争では、広島の陸軍予備病院で4ヵ月間篤志看護婦として従軍。40人の看護婦の取締役として、怪我人の看護だけでなく、看護婦の地位の向上にも努めた。明治29年(1896年)、その時の功績が認められ、勲七等宝冠章が授与された。その後、篤志看護婦人会の看護学修業証を得て看護学校の助教を務め、明治37年(1904年)日露戦争時には、大阪の陸軍予備病院で2ヶ月間篤志看護婦として従軍し、その功績によって勲六等宝冠章が授与された。これらの功績により昭和3年(1928年)、昭和天皇の即位大礼の際に銀杯を下賜される。その4年後、寺町丸太町上ルの自邸(現・新島旧邸)にて死去。86歳没。葬儀は「同志社社葬」として4,000人もの参列者があった。墓所は、京都市左京区鹿ケ谷若王子山町の京都市営若王子墓地内同志社墓地。

新島 八重(にいじま やえ)
弘化2年11月3日(1845年12月1日) - 昭和7年(1932年)6月14日)は、幕末から昭和初期の日本女性。同志社創立者の新島襄の妻として知られる。旧姓は山本。一部の手紙などでは「八重子」と署名してあることから、史料によっては新島八重子と書かれる場合もある。 悪妻、烈婦、元祖ハンサムウーマンなどと呼ばれるほど明治の時代にあってエネルギッシュに生き、皇族以外の女性としてはじめて政府より叙勲を受けた。
Wikipedia

会津バス終点 鶴ヶ城合同庁舎前から鶴ヶ城は歩いて直ぐ。
飯盛山方面バス(会津若松市内循環バスハイカラさん)の時間まで鶴ヶ城を外から見学する。

会津若松市内循環バス
ハイカラさん鶴ヶ城停留所

市内循環バス「ハイカラさん」鶴ヶ城入口で乗車。
飯盛山・会津若松方面行きのバスは途中で東山温泉経由して行く。

市内循環バス「ハイカラさん」飯盛山下で下車。
白虎隊遺跡のある飯盛山へ向かう。

白虎隊遺跡の飯盛山入口。入山料?かと思い二人分支払い進むと、エスカレーターではなく動く歩道だった。
支払ったのは入山料でなく動く歩道の料金だった。うまくのせられたと思いながら歩道に乗って上に進む。


動く歩道の先の石段を上ったところに白虎隊の墓がある。   

自刃した白虎隊士の遺骸は、西軍により手をつけることを禁じられ、約三ヶ月後に仮埋葬され、明治2年ようやく自刃地に改葬され、現在の形に十九士の墓が建てられたのは明治23年。右側には会津の各地で戦い、亡くなった白虎隊士三十一名の墓と、左側には白虎隊士と同じ年齢で県内各地及び新潟・栃木・京都で戦い、戦士した会津藩少年武士(白虎隊の仲間達)の慰霊碑もある。



白虎隊
会津戦争に際して会津藩が組織した、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。中には志願して生年月日を改め15歳で出陣した者もいたほか、幼少組として13歳の少年も加わっていた。
慶応4年(1868年)戊辰戦争では、会津藩は鶴ヶ城を死守するが、会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。
一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たり、二番隊は戸ノ口原の戦いで決定的打撃を受けて敗走、負傷者を抱え飯盛山へと落ち延びた。
ここで眺めた戦闘による市中火災の模様を目にし、総勢20名が自刃を決行、一命を取り留めた飯沼貞吉を除く19名が死亡した。
飯沼が生前伝え残した史料によると、当時隊員らは鶴ヶ城に戻って敵と戦うことを望む者、敵陣に斬り込んで玉砕を望む者と意見がわかれ、が敵に捕まり生き恥をさらすことを望まなかった隊員は、城が焼け落ちていないことを知りながら飯盛山で自刃を決行したという。
残った白虎隊は鶴ヶ城に篭城し西本丸を守り、籠城戦は1か月続いたが、最終的に会津藩は降伏した。
その後、飯沼は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で没した。飯盛山での出来事についてその重い口を開いたのは晩年で、それにより白虎隊の悲劇が現在に伝わっている。飯沼は日清戦争では陸軍歩兵大尉として出征、漢陽に渡った際、ピストルを携帯するように言いつけられたが、「自分は白虎隊として死んだ身である」と断ったという逸話が残っている。飯沼の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所(他の隊士の墓から距離を置いて)に埋葬された

 
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隊士の墓横のローマ市寄贈の碑。

隊士の墓直ぐ先に自刃の地がある。
雪で足元が悪いので遠くから眺めて山を下りる。




帰りは会津若松市街を正面に見ながら、動く歩道の脇の石段道を下りて行く。

石段途中で右に折れて旧跡「さざえ堂」を見学する。

さざえ堂は寛政8年(1796年)建立された仏堂。六稜三層の形がさざえに似ているのが名前の由来。堂内は上り下りするらせん階段があり、対向する人に出会うことなく、また一度も同じ道を通ることなく、一方通行で堂内を参ることができる。

さざえ堂の境内に隣接して宇賀神堂。創建は寛文年間(1661〜1672)に会津藩三代藩主松平正容が宇賀神を勧請し弁財天像を神像として社殿を建立した事が始まり。飯盛山で自刃した白虎隊19士の霊像が安置されている。

白虎隊飯盛山一人の生き残り、飯沼貞雄は電信技士として維新後を生き抜き、1931年に79歳で没した。
遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所(他の隊士の墓から距離を置いて)に埋葬された


BSジャパンで正月ドラマ『白虎隊・敗れざる者たち』が放映され録画してみた。
史実は参考になったが、いま一つ緊迫感が伝わらないドラマだった。

帰りはエレベーター横の石段を下る。正面に会津若松の町が見える。
明治維新直前には、白虎隊の若者達もこんな景色を悲壮な状況の中で目にしたことだろう。

飯盛山下バス停でバスを待つ間、高台にあるバス停は、雪の後の北風がまともに吹きぬけていき、寒くて身体の心まで冷えてしまった。やっと来たハイカラさんバスに乗って会津若松駅へ。
市内循環バス・ハイカラさんは1回200円、市内移動に大変便利。



 
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会津駅前高速バスターミナルから16時発新宿行きバス(一人2500円)に乗って帰路につく。
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